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語り手 コムラマイ と 聞き手 吉野俊太郎


コムラマイ comuramai
写真家。1993年徳島県生まれ。2016年に関西学院大学文化歴史学科美学芸術学専修を卒業。
2017年フリーランスカメラマンとして活動を開始。

吉野 俊太郎 Shuntaro Yoshino
美術家。1993年新潟県生まれ。2019年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。
現在は東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程に在学中。


目次–––

3.何を撮影しているんですか? –––モデルとの関係、わたしの身体

4.「自分は誰も傷つけないヌードを撮りたい」–––鑑賞のセクシャリティ、セルフポートレート…

5.影響を受けた作家は誰ですか?–––2つの欲望、嫉妬とスキンケア、写真の本質

6.いつか失明するんじゃないかと不安を抱えて –––わたしは目が悪い

7.「自分の身体はいろんなところにある」–––化粧、美容整形…

8.エピローグ –––このあとはどうやって撮るのだろうか…服の価値?


コムラ
 今まで作品について言葉で伝える機会をほとんど作ってこなかったので、今回は友達の吉野俊太郎くんにお願いし、インタビュー形式でいろんな話を聞いてもらおうと思います!

 吉野くん、どうぞよろしくお願いします!

吉野

 よろしくお願いします!

 では…どうやって始めようかな。じゃあまず初めに、作品をつくる上で気をつけていること、考えていることなどはありますか?

コムラ

 見た目の話だと色かな。自分が好きなイエローベースの、統一感のある色にするようにしてます。あと、作品を作る時って主に撮影と編集の2段階に分けれると思っていて、撮影の時点で色と明るさをクリアな印象に近づけたくて。編集だとトリミングを色々試します。

 なんでそうしてるかというと、皮膚をそのまま写すと生々しいじゃないですか…毛とか肌理とか。それをわたしのフィルターを通した肌に、本物の肌にはならないかもしれないけど…だから男性を撮っても色白でない人を撮っても、だいたい明るくて、鮮やかな肌になっていく。リアルは追い求めてないから、トリミングや色もLightroomで調整してます。

 あと、生物学的な皮膚の資料みたいになるのも嫌だなって思って、そこも気にしてます。どうしたら作品になるのかなって。題材もシンプルだし、撮り方もすごい簡単なので…。だから他人の身体を借りて作る時はなおさら標本とかにならないように。自分を撮ることもあるんですけど。

 それと、人を撮る時は失礼がないようにかなり気をつけています。2018年に荒木経惟さんがモデルさんから告発されたことはまだ記憶に新しいんじゃないかな。他にもそういうことっていっぱいあったと思うんですけど、男性写真家が女性モデルの性的魅力をアピールをするような写真は個人的には前時代的に思っていて。自分の作品でそういった性的搾取は絶対にしたくなくて。でも実は、わたしも4年前とかは友人にお願いして全裸(胸や性器込みの全身)の姿を撮影もしていました。当時からモデルさんには最大限の配慮をしつつ、毎回の撮影を楽しんでいたけど、今思うと色々とすごい行動力だったとなと…

 今はもう〈ガールズフォト〉などとは言ったりしないですが、自分がまさに「20代の女性写真家」なので、「女性が撮った女性らしい写真」「女性特有の感性」というふうには評価されたくはないんです。パステルカラーの色味や時々撮影する肌着とかには女性っぽさみたいなものがあるのかもしれませんが…なんだか国籍や年齢、性別がぼやっとした写真家として認識されたいなと思ってます。

吉野

 なるほど〜。色々掘り下げたい話が多く出ましたね…

 「前時代の写真」とおっしゃってましたが、具体的にどういう感情を持っているかをお聞きしてみたいです。

コムラ

 日本の有名なヌード写真家としては前述した荒木さんなどを再び例に挙げるんですが…荒木さんの本を読んでみても、驚きはあっても共感できるポイントは見つけられなかったんですよね。ただただ撮られる人の気持ちを考えていない、想像しようともしないんだな、と。だけど何十年か前まではそういった写真家が主流だったように思います。撮りたいものを撮りたいように撮る。わたしからするとかなり暴力的に感じます。カメラを持っているからといって、何でもやっていいわけじゃない。

 まあ、でも一概には言えないです。いろんな写真家がいますし。例えば荒木さんと同じ私写真の代表的写真家として有名な深瀬昌久さんは好きです。

吉野

 なんとなくおっしゃってることはわかります。パッと挙げられた荒木さんの作品に対しては僕も、日常的ではないような光景をモデルを道具として扱って具体化しているような、そんな印象は僕も持っています。そのあたりで嫌悪感を持っているんだろうなと。

コムラ

 そうですね、それだ、「芸術だから許される女の扱い方」だ。もしかしたらわたしが知らないだけかもだけど、荒木さんらが自分と同年代の男性を女性と同じぐらい積極的に撮っている印象はないんですよね。わたしは男性も撮りたい。でもわたしが違和感を抱く男性写真家は自分にとっての異性、つまり女性(特に若い女性)の方が性的魅力、被写体としての魅力があると思っているように見えます。それに比べ同年代の男性に対してはそういうふうに見ていない気がする。その態度の差が気になってしまう。

 それと…相澤義和さんという写真家は知ってますか?自身よりも年下の女性をエロティックに撮るような作品をいくつか発表している方です。『愛情観察』(2019年)を見て個人的に引っかかってしまって…

 2020年2月に行った展示に来てくれた女性のお客さんと、荒木さんや相澤さんの写真に対する生理的な不快感について話し合ったことがあったんです。女性自らが取ったポージングだとしても、胸や尻を強調したり、脱いだ衣服が写り込んでいたりとか、スカートをめくられているような写真とか…女性である自分たちはそれを見てしんどくなるねって。でも相澤さんの2020年のWebインタビューを拝読すると、彼の撮影スタイルと写真理念はわたしとお客さんが受けた印象とは全く違っていました。だけど一個人としてわたしは社会的地位の高い(ここでは写真家として名が売れているという意味)年上の男性が若い女性の「女性性」部分のみにスポットを当ててるような感覚を受け取ってしまった。

 彼らの作品に対して、なんとなく自分が好きなポートレートではないと感じている女性と話が通じ合った時に、この気持ちは自分だけじゃないと気づけました。一部の女性だけでなく他の人々も、似たこと思ってるかもなって。

吉野

 ふむふむ。相澤義和さんの2019年のWebインタビュー記事のタイトルは『「こういう女であれ」という押し付けはしたくない』とのことですが、そういえば変なタイトルですね。押し付けをしない、という押し付け、自己暗示のような…

コムラ

 変なタイトルだね。わたしが作品集を見た時にはすぐに言葉にはできなかったけど、何かは自分の中に引っかかったな。でも人気がある。女性からも。

 相澤さんは被写体となる女性との関係は丁寧に築いている方だと思うし、前述した2020年のインタビューでは個人を「カテゴライズしない」重要性を話していた。でも若い女性を撮影しそれをまとめた作品集を発表すること自体ある種のカテゴライズなのでは…と考えてしまう。いかに個を大切にしていても、写っているのは「若い健康的身体を持つ(ように見える)女性」だから。正直、わたしはおじさんと呼ばれる世代の男性と若い女性がデートしているような関係性や、密室で撮影することを不気味に感じました。自分もいつかおばさんになるけど、わたしがその年になった時に年下の男性をそんな感じには撮らないだろうなと。

吉野

 コムラさんが気にしてらっしゃるそれらは、歴史的には根深い問題ですね。例えば性の技法書である『カーマ・スートラ』を生み出した古代ヒンドゥー教の、寺社建築を彩る彫像には極めて直接的な性愛が象られていたりもしますが、その中に登場する女性像は、あまりに強調されすぎたセックスアピールのためのプロポーションを持っています。男尊女卑的な目線を抜きにしても、そういったセクシャルな視点が重要であったという時代は間違いなくありました。そういったヘテロセクシャル優位、男性優位の性観念の歴史前提を現代においてどう捉え直すかはとても難しい話だなとは、個人的には思います。

コムラ

 これすごい難しい問題だよね。

吉野

 そういう話に対して批判的な動きがあるのは一方では正しいと思いますが、コムラさん個人の作品がフェミニズムの主張にも安易に繋がりかねないなとも。

コムラ

 うんうん、でもわたしの作品=フェミニズムとしての表現ではないんですよね。もちろんわたしの性格や生き方に影響していますが。

 わたしは作品としてヌードを撮りたいなと思った時、そこには女性という性別以外の人も含んでいます。女性を魅力的に写すジャンルももちろんあるし、これまでの芸術にも、女性の身体や容姿を美しく表現することで「いい作品だな」って思ったこともあるけど…。たぶんそれを新しくしたい。否定したいんじゃなくて新しくしたい。わたしの写真って一見ヌード写真には見えないけど、でも新しいヌード写真の定義として提案できるんじゃないかな。性別がわからないくらいに寄ったものとか、輪郭を失ったものとか。

 でね、今SNSとかですごーいたくさん、人の顔写真が見えるし、たぶんそろそろみんなSNSに掲載された写真に疲れてくる頃だと思うから…

吉野

 沢山の顔写真が…というのは、新型コロナウイルスの影響でというのもあるんですよね?

コムラ

 たしかにコロナの影響もあるけど、コロナ前から。具体的にいうとわたしが高校、大学あたりからInstagramが流行りだして、TumblrとかあとPinterestとか…。めっちゃ写真あるやん、すんごい沢山の人を写すやんって。そこには顔が写っている写真がたくさんある。

 で、なんだかある時からポートレート、ヌード写真の分野に大きな変化はない気がするんです。石内都さんの傷跡を写したモノクロームの作品は身体のクロースアップ作品の代表的な一つだと思いますが、クロースアップした写真ばかり撮っている写真家はまだ知らなくて。だから一人でクロースアップの可能性を感じているけど、どこにもそういうことを言ってないから…なんか変わった奴で終わるんだろうなあって、自分。

吉野

 クロースアップには、被写体が誰かわからなくなる、国籍や性別などの情報がわからなくなるという効果はありますが、それともう一つ、写真に写っているものがもともとどんな全体像を持っていたのかもわからないという状況にもなってると思うんですよ。そこでじゃあそのコムラさんの朧げな写真群と相澤さんの写真を隣合わせに並べた時に、観客からの注目度はおそらく大きく差が出ると思うんです。そこで必要になってくるのは、コムラさんの作品に対する解説にもなってくると思いますね、それが言葉であれ作品であれ。

 今ってコムラさんの作品の状況は、抽象表現主義の時代の絵画にも似ているように感じるんですよね。オールオーバー、画面全体に同じ系統の絵具が塗られているような、かなりフラットな絵画に見える。グリーンバーグが言っていたような絵画を窓ではなく、奥行きに限界のある面として捉える思想にまで接近してきてしまっている部分はあると思っていて…。キャッチーさを失っているが、代わりにグリーンバーグ的モダニズムにあったような「崇高」にも遠からずの表面を獲得しているとも言えるのではないか、とは思うんですよね。

コムラ

 あ〜ロスコを思いながら聞いてた!わたし絵が好きなんです。その願望は作品に出ていると思う。肌を写している画面の下に「自分も、絵が描きたかった!」みたいな(笑)

 今そのぼやけた写真もその延長で、絵に描いてるように撮っている節はかなりある。たぶんそこが、皮膚をそのまま写すリアリティじゃなくて、自分の意図を反映させたいという気持ちがあるんだと思う。構成したいというか、見せ方をコントロールしたいとかのね。あとは線とか、色とか光の当て具合とか。

2. 見せ方をコントロールする–––“誰も傷つけない”とは

吉野

 コントロールといえば、最初の方で「見た目の色に統一感」という話がありましたが、統一するために基準を決めなければならないと思うんです。その基準はどうやって決めているんでしょう?各作品群ごとに統一する色を変えたりもしているんですか?

コムラ

 色のテーマはだいたい一緒ですね。Instagramとか見ていただくと、コムラはこういう紫、黄色は使わないなって色があると思うんですけど、特定の色をなるべく使わないことで世界観を統一するようにしてます。でもカメラの設定とか被写体、現場の状況なんかによって毎回肌の色は変わってしまうので、そこはその人本来の肌の色というよりは、わたしが見せたい、描きたい色にするために編集している感じですね。

吉野

 じゃあ結構編集してるんですね。全然違うじゃん!ってこともあるんですか?

コムラ

 ありますよ!だから被写体本人に見せたらびっくりしてる時とかもあって(笑)

吉野

 2020年5月に発刊した『エトセトラ VOL.3 特集:私の私による私のための身体「近づくほどに遠ざかる/身体」』に掲載されていたインタビュー記事内に「いい感じの魂の入れ物じゃん、という感想を貰った」という話があったと思うんですが、それも編集後に作品を見せたらってことですか?

コムラ

 そうそう。

吉野

 なるほど〜、編集が多く入ってるという話はびっくりしました!

 ところで「撮影の時点で見た目をクリアな印象に」「編集だとトリミングを試す」と最初おっしゃっていたり「編集ソフトで色味を調整する」というような話もありましたが、もしかして、いわゆる硬派なフィルム写真家からはめちゃくちゃ怒られるやり方ですよね?(笑)

コムラ

 そうですそうです(笑)写真ってまだまだフィルム至上主義は根強い印象がある。初めて会う芸術関係の人との会話ですぐに「フィルムですか?デジタルですか?」って聞かれること多いんですよね。

 わたしは機材は一眼レフを使用していて、マニュアルで撮影します。デジタルだと撮ってすぐ確認できて、PCでかなり細かなところを何度でも試せるし、撮影から修正までのスピードも速い。わたしの写真は基本的に色が薄めなので、デジタルでの微調整が欠かせません。こういったデジタルの長所が自分と合っていると感じてます。

追記:この話をしているのは2020年5月。2021年春からフィルム撮影をはじめました。編集ソフトでトリミングや色調整は行いますが、デジタルに比べると手の入れ方は1/10ほどになりました。あんなに好きだったデジタルでの細かい調整に疲れ、たまたま撮れたものに身を任せたいという気持ちが強くなった結果でした。またこの話はいつかどこかでできれば…

吉野

 ふむふむ。シャッターを切った後のコントロールしやすさ…

 この後はもしかしてお気を悪くされる話かもしれないんですが…コムラさんの作品を見ていて気になるのは、接写にも、編集中のトリミングにもある「切り取る」「切り出す」という行為があるということなんですよね。

 僕も彫刻を専門としているので、「切る」とか「彫る」、あるいは「触れる」などの接触行為はかなり身近にも思えることなんですが…。僕自身、過去に卒業制作で素材の形をコントロール(彫刻)するための行為について「攻撃的行為」という言葉を使って言及したことがありまして、その中で、作者-素材が彫る者-彫られる者として強いヒエラルキーの関係にあると考察したんですね。それは当時木彫技法を専攻にしていて、そこで素材となる木は削ると水分がにじみ出てきたり、彫る時も強く槌を振り下ろしたりで、なんだか個人的にすごく抵抗感があったからなんですが…。絶えず傷つけているような感じが嫌で。

 …そういったこともあって、僕にとっては「切り取る」「切り出す」「コントロールする」が「傷つける」という行為に遠からずな行為にも思えちゃったりするんですが、一方で考えてみるとコムラさんには前述した『エトセトラ VOL.3』での発言において「誰も傷つけないヌード」というコンセプトも紹介されてますよね。(…これもまた「切り」抜かれてしまった発言かな、などとも思ったりはするんですが…)

 そこで聞いてみたいんですが、「誰も傷つけないヌード」の成立方法についてはどう考えてていらっしゃいますか?誰も、傷つけないとは。

コムラ

 自分は親切な、良識のある、マナーを守る写真家を目指してるけど、結局写真を撮ること自体が暴力的な行為で。その中で誰の心も傷つけないことは可能なのかって思った時に、逆に今までの写真家はそれを考えたことがあったのか。誰も傷つけないように頑張ってみた写真がどれぐらいあったのかなって思うんですよね。みんな諦めていないか、写真は暴力的だからと。作品だから、攻めていこうぜ、みんなが見たことない景色を撮ろうぜという姿勢があるんじゃないかなってことに対してまず疑問があって。無理かもしれないけど自分がそこで考えてみたいっていうのがありました。

 あと、例えば文章って「死ぬほど頑張った」の「死ぬ」だけ切り取ると全然違った歩き方をしてしまうじゃないですか。でもそれらの言葉と違って、身体って全身を写せば写すほど傷つくと思うんですよね。頭から足まで見える全体像だと、その人の身体についての細かな情報が伝わってしまいかねない。

 でも写真って寄れば寄るほど、デジタルだとピクセルになっていくわけですよね。だから全身を写すよりも、例えば唇だけとか、歯だけとか、指の毛1本に寄れば寄るほど被写体から遠くなれる。いい意味で孤立できる。でも言葉は違う。そこは大きな違いなのかなって。

 もちろん全身見られても平気という人もいるからわからないですけど、たぶん知らない人間に自分の全裸を見られることに抵抗ある人の方が多いはずだから、そこで考えてみたら、顔や全身や性器が写るより、寄ることで守れるプライバシーが写真にはあるんじゃないかなって思ってます。

吉野

 寄ることで守れるプライバシー、面白いですね。

 なんだかYoutuberの撮影の動画とかを思い出しますね。彼らはプライバシーを守るために窓からの風景をカーテンで常に遮蔽するんですよ。時間も昼なのか夜なのかわからないようにしているし、しかも場面場面で写したくないところがある場合、演者の顔や上半身だけにクロースアップして、他のところに映らないようにする。

コムラ

 でも切り取り方に写真家の人間性が問われますよね。悪意を持ったトリミングをしない、被写体が嫌がる部分を切り取らないとか。そこは人間性でもあり、センス、信頼関係といった話でもある…

 でも、寄れば寄るほど「ここに写っているのは自分じゃない」と思えるから、意外と。わたしもそうなんです。自撮りする時に、寄れば寄るほど自分じゃない、ただの人間になるから、ネットに載せても抵抗がなくなって。自分だけど、自分を含めた「人間」という大きな物体を撮っているような気持ちになるんですよね。

 荒木さんや相澤さんが女性を撮影した作品は「モデルさんの名前、年齢」をすぐにイメージしてしまう。そして頭の中ではそれがタイトルみたいになってしまう。モデルさんはその枠から逃げられない印象がある。

吉野

 なるほどなるほど。

 ところでさっき、編集ソフトで二次的にトリミングをする人と、撮影段階でカメラの画角でトリミングをしようとする人の違いについても考えていたんですが…。モデル自身が自分のことを接写したがるのが、そのどちらかなと思ったんです。

 たとえば、アイコンを用意しなきゃいけないときに、自分の目や手を接写してアイコンにしている人が結構いますよね。あるいはマスクなどをした自分を写して、ある意味で顔に対してトリミングをして、自身の欠点を隠すなど…自分自身を写真に収める時には接写やトリミングをしたがる気持ちがある人が多いのかなと思いました。

 一方で逆に、そうではない人たちもいる。客観視して、冷酷に全体を撮影する人々、カメラマンですね。荒木さんや相澤さんを擁護するとすれば、彼らは客観的立場ゆえに他者への評価も寛容で、だからこそ全体を撮影できるのかなと。

 前者は主観的に「ここは許せるパーツ」「ここは許せないパーツ」などを分類して、「許せるパーツ」のみをトリミングしてアイコンにしてるのかなと、ふわっと思ったんですけど。

 そう考えるとコムラさんの作品はちょっとアイコンぽいなって思えてくるんです。コムラさんがなぜ接写の方に移っているのかは、もしかするとモデルを接写する際に、コムラさんはモデルに対して共感している、共鳴している部分が強いのでは…?と思います。

コムラ

 あるある、共感している部分はあります。撮ってる時はモデルのことを自分だと思っています。尊さを。他人の方が尊いとか、他人のために頑張れるというのもあるけど、やっぱり自分が一番大事じゃん。で、相手のことを自分と同じぐらい大事にすることって意外と難しかったりするし。だからそこは置き換えているというか、投影しているって感じですかね。

 撮影中にモデルさんが「全然パンツも脱ぐよ!」とか言ってくれても、すごい心配しちゃって「脱がなくても大丈夫です!!!」って言う時もある。それはわたしだったら今脱ぎたくないなと思う時だから。感情移入はかなりありますね、撮影中。

吉野

 面白いですね。写真には「誰が撮っているのか?」という問いもあるくらい、主導権を握る主体が不明な…客観性の高いメディアだと思うんですが、そこに感情移入や共感というものが発生するのはとっても面白いですね。

コムラ

 「これを次見た人が不快に思わないか」「モデルさんが傷つかないか」っていう感覚なんですよね。自分の中で常識だと思っていることに近いから、自分もちゃんとするっていう。カメラやモデルに飲まれないことも当たり前というか。そうしないと絶対誰かを傷つけてしまうと思って。

吉野

 さっきから「傷つける」というワードが頻発していて、強い拒絶反応を示されているのはよくわかりますね。

コムラ

 それは過去に経験した、私にヌード撮影を依頼してきた男性との出来事と、自分がモデルをした際の撮影後の酷い扱われ方が決定打だったのかも。どちらも私より年上の男性でした。

吉野

 あー。そうか。性の問題が非常に大きいですね。

コムラ

 そう言えば、好きな写真家は同性愛者の方が多いんです。例えば任航(レン・ハン)。卒論は彼について書いたんですが、彼は男性も女性も同じテンションで撮っているんですね。あとロバート・メイプルソープも。リサ・ライオンと花を撮った作品は特に好き。いろんな被写体を撮るけど共通した情熱を感じるからかな。

 男性が女性を撮った写真を見ると「この写真を撮ったカメラマンは男性だろうな」ってわかることがあり、わたしにはそれがしんどい。なんでわかっちゃうんだろうって考えたんですが、たぶんそれは、あくまで「男性」から見た「女性」のみ写っていて、一人の人間として彼らの目に映っていないというか、扱われていないというか…。写真から「男性の視点」を感じ取ってしまう。もちろん全ての写真ではないし、この傾向はプロだけでなくSNSに写真を投稿している、いわゆるアマチュアと呼ばれる部類の方たちに多く見られる気がしてます。

吉野

 おっしゃっている“男性の視点”には「弱さ」があまり多くないとかなんですかね。例えば彫刻だと「弱い彫刻」を作る男性って圧倒的に少なくて。物質的に弱い彫刻とか、触れたら壊れてしまうような彫刻とか。完全にイメージですが、ファリック(男性器的)な強さを志向する作品が多い印象すらあり、気になってはいます。

 でも女性が作っている作品を「非男性的な」「女性的な」というのもなんとなく違う気はするんですが…結果的には同じことが起きているのかな、とも。

コムラ

 それは写真でも言えることかも。歴史を振り返ると男性写真家の方が多く名を残しているしね。美術館に行ったり写真集を見ると。いろんな理由があるけど、一つは写真の評価基準が男性の意見をもとに作られていたから。たくさんの女性が芸術系の学校に進学しているのに、アーティストや学校の先生になるのは男性の方が多い気がします。

 日常、身体を撮るっていう行為は神秘的、魅力的、非日常性もあるけど、現実のことだと思っていて。さっきの話の続きっぽくなるけど、一部の男性写真家は女性の身体を悪い意味で「良いように」見てるんじゃないかってと思うことがある。魅惑的な身体、例えばその曲線美、丸みのある胸や尻、神秘的な腹部や女性器、柔らかで滑らかな肌…など。今わざとステレオタイプの特徴を挙げました。でもこういった、女性だったら「へえ、ふーん」ぐらいのことを、一部の人々は性的な対象として祭り上げているというか、神聖視しつつ自分の所有物としてしか見ていないというか…

吉野

 特別視と、所有への欲望は内在しているでしょうね。切り取り、切り出すことで所有できる。「〜できる」という感覚から作品が作られているという点は「男性的」なのかな〜とも、なんとなく考えます。コムラさんの作品には「よく見えない」…不可能性が関わってくるような…

 しかし写真は「描写する/描写できる」というポジティブな可能性が関わるメディア。荒木さんの作品《PARADISE》とかは違和感を感じるほどに鮮明に描写している。彼の光が目に突っ込んでくるような強い写真は、コムラさんの画面とは明確に異なりますね…

コムラ

 根本的に何をどう写したいか、が違うからでしょうね。カラダって漢字は3つありますよね。体、躰、身体。わたしは書く時は意図的に「身体」にしています。身体は人間の肉体を意味し、心と体も含むそうです。身体を撮っているというニュアンスがあるのかも。

 ところでさっき吉野くんが言ってた「彫刻は攻撃的なもの」っていう認識は、友人の彫刻家たちからもしばしば聞いていて。木彫の作家は特に「暴力的だよね」って話してました。でもわたしはその発言を聞くまで彫刻が暴力的だと思ったことはなかった。優しいね。人じゃない物、鉄、石、木、そういった物を傷つけているという認識。わたしは人を傷つけてはいけないとピリピリしているけど、物に対してはそこまで思ったことはなかったな。傷つけているという実感がなかった。そこが面白い。吉野くんもそう思っているんだなって、傷つけているんだって。

吉野

 それは多分、物を傷つけているという自覚を持たざるをえないくらい傷つけてしまっているからだと思います。形を変化させるって実はすごく強い作用で、彫刻に用いるような粘土も強い圧力を指で加えることで初めて形は変わる。でもバナナではやらないですよね?(笑)なぜならバナナや桃だと押した部分が黒ずむ、そこに強烈な圧やストレスがあったということがわかるから。でも粘土だと傷として残らないので、粘土も変化を「受け入れてくれた」のように思ってしまうんだと思うのかな〜と思ってます。それに自覚的な人もいるけど、全くならない人もいる。それを自覚しつつ諦めている人もたぶん多い。

 僕は自覚した後の態度や行為が重要だと思っていますね。「傷つけ」に気が付いている場合、そこから何も改善、進歩せずにいるのは違和感がある。その考え方だと、ものに対して感傷的になりすぎる傾向はあるんですけどね…

コムラ

彫刻は暴力的な要素があるっていうのは、前々からのテーマなの?それとも最近?

吉野

 そういうのが言われ始めているのは大きい動きとしては最近だと思います。でも作家個人個人でそこにフォーカスしていた人は多かったはず。

 たとえば日本の仏師はおそらくそうでした。仏像だと御衣木加持(みそぎかじ)をするなど、素材を仰々しく対象化することはありましたし。だから現代でも木彫作家などは特にその辺りに気がいきやすかったのだと思います。木彫は特に傷つけているという感覚にもなりやすい。

 ところで僕の制作テーマは素材と作者のヒエラルキーについてで、操られ、コントロールされている素材、傷つけられている素材などにフォーカスするもの。彫刻に対する嫌悪感から来てますね…。だからコムラさんのテーマには共有できる部分も多いし、関心事として近いからこそ、「誰も傷つけないヌード」の成立可能性には興味があります。

コムラ

 「誰も傷つけない」っていうテーマはちょっとキャッチーな響きがあっていいね。吉野くんと似たような違和感を持っていることが嬉しい。「誰も傷つけない」は難しいとわかっているが、自分がそれを叶えるため奔走することに意味がある。以前は自分が撮りたいものを撮っていればいいと思っていたけど、おじさんからのセクハラを経験して写真のルールを変えたいという使命感が少し出てきた。

 ようやく自分の作品と社会との関係性が生まれてきたように思う。こういったわたしの制作活動に需要があるかわからないけど考え続けること、こうして話すことが、写真界を変えるきっかけ、そして作品理解への一つの手助けになるよねきっと。

3.何を撮影しているんですか?

–––モデルとの関係、わたしの身体

吉野

 作品の抱えているイメージについてお聞きしてみたいと思います。コムラさんの最近の作品には毛や皺などにクロースアップしたような作品が多いですが、撮影のポイントはどのように決めているのでしょうか。

コムラ

 モデルは仲の良い友人にお願いしています。だから脱いでもらっても、身体に際立った特徴の少ない人もいるし、個性的な特徴の多い人もいて、それは事前にわかることではありません。身体を目当てに声をかけるわけではなく、仲良いからモデルをお願いしているのであって、脱いでもらって初めて見てみて「ここの皺、肉のラインいいね」といった感じでポイントを探していきます。

 でも最近は、鑑賞者が見たいのはわたしの友人の身体ではなくて「面白い身体」なのかな、と考えてしまって…。個性的な特徴のある人にモデルをお願いするのか、身近な人を撮るのか、難しいところですね。

吉野

 なるほど〜。そういえば皺とか毛とか、身体的な特徴としてはネガティブにも捉えられてしまうようなポイントが多い点は、ささやかなフリークスという感じもしますね。見世物になっていた特異な身体、に近い話。僕はここしばらく双子にちょっとした興味があるのですが、たとえばダイアン・アーバスや牛腸茂雄、林ナツミ+原久路など…双子を利用することは良いのかどうかを考えてしまうんですよね。双子は社会的にネガティブな身体なわけではないと思いますが、では倫理的に何の問題もなく、誰にも喜ばれるような話なのかといったら怪しい気もするんですよね。

 身体的な特徴を取り上げて作品にしてしまうことは、どこまでしていいのことなのかは悩ましいですね。

コムラ

 悩みますね。当たり前だけど身体はそれぞれ違うし、その中でも必ず良いポイントは存在する。ただ、モデルによって結果的に採用するカットの枚数は変わります。

 制作のスタイルを大事にすべきとは思っていますが、写真単体で見た時に、例えばもっと面白い痣や肉体、パーソナルな特徴を持っている人はいるだろうなとも思っています。ささやかな、ネガティブな部分を撮っているけど、だからこそこういう風に話していかないと、ちょっとした体毛や痣、傷を撮っていると思われてしまう。作品が割り切っていないから。

吉野

 そこを割り切ってやっていくのは結構難しいですよね。そういえば、友達にモデルを頼むことが多いからなのか、コムラさんの作品には一定以上の年齢の人はあんまり登場しない印象がありますが…

コムラ

 2018年くらいまでは同い年か、一個二個違いくらいの同年代の人ばかりを撮っていました。「全ての身体は美しいよ」といったスタンスで撮ることが多かったんですけど、若くて健康的な身体が美しいのは当たり前だなって。たまたまそんな時に48〜54歳のおじさんからヌード撮影の依頼を受けて。2章でも少しお話した、例の年上男性とのトラブルなんですが…。同年代ばかり撮ることをコンプレックスに感じていて、良くないなと思っていてから、自分の父親に歳が近い男性のヌード撮影に挑戦してみようと思って。実際撮ってみたらきつい目にあいました。

吉野

 そうか、その話に繋がるんですね。

コムラ

 あと、わたしは年をいっている人の身体に対しての理解が少ないんです。銭湯や写真集では見かけるけど。老いた身体はまだ他人なんですよね。きっと撮ることはできるけど、シミや皺の現れ方とか、そういう身体の表情みたいなものへの理解は難しい。だから自分が年老いた時に、同じく年老いた同年代の人を撮れればいいかなって。無理に年上の人を撮ることはやめました。

吉野

 ふむふむ…

 カメラマンとモデルさんの、距離感とか関係性とかについては今はどう考えていますか?こういった距離感がちょうど良いとか、作品にした時にこの人はこういう付き合い方にしとこうとか、撮っているときはこういう態度で望もう、とか。何か決めていることとかはありますか?

コムラ

 これは写真集を作っている時にわかったんですけど。2年ほどかけてどの写真を採用するか吟味してる時に、モデルさんのことを人間として好きじゃないと写真が使いづらくなって。これは撮った後の話ですけど。二人でご飯行ける、沈黙気まづくない、なんでも話せるぐらいの距離感の友達の写真をメインに掲載した。身体的特徴がわたし的に美しくしても、この人ちょっと苦手だなと思ったら使えない。でも撮影中は割と誰でも撮れる。触れる前に声をかけるなどの線引きはあるけど。

吉野

 公開するときの方が問題が大きいんですね。関係が近い人の方が使いやすい使えるというのは、具体的にどういう点でなんでしょうか…?公開してから問題が起きる可能性が少ないとかそういう話ですかね。

コムラ

 まあ多分それもね、あるんでしょうけど。

 やっぱり掲載やめてほしいとか、ギャランティ欲しいとか、そういった現実的な問題も多少は危惧してはいます。撮影してる時間よりも編集時間の方が長くて、1〜2年前の写真も繰り返し編集しているので…

吉野

 1〜2年前!思えば、コムラさんのInstagramとかTwitterの投稿の中でも「この写真はかなり前に撮ったんだろうな」みたいな写真も挙がっていますが、これらはアップロードする日くらいまで編集を、撮影した日から繰り返してやっていたということなんでしょうか?

コムラ

 そうですね。毎日するわけではないですけど。SNS更新したいな、展示したいなと思ったら、今まで撮った写真を全て一度見直します。

吉野

 で、一回これで終わりってしたものも再度触り出すこともあるとか?

コムラ

 触ります、そうですね。

吉野

 なんと!なんだか本当に画家みたいな制作スタイルですよね。

 絵画も彫刻も、作品をたくさん作っている方とかって、作品をいくつも並行して作る傾向がある気がするんですよ。制作の終点を決めている人もいれば、ほとんど決めていない人も多くいて。アトリエを訪問すると、作品のストックと呼んでいいのかわからないけども、発表してない作品も大量にあって、しかもそれをあっちこっち手を入れ直してっていうのを続けている。

 油絵とか石彫や木彫で共通して言えるのは、手をずーっと入れられることですよね。水粘土とかだと、乾いてひび割れてしまったり、カビが生えてしまったりするから、そのまま展示することはできず、石膏とかプラスチックとかに置き換える。でも置き換えるともう形を変えることは難しくなってしまうので、制作の終点が自ずと決まってくる…

 写真は絵画や彫刻とは違うカテゴリーに数えられることも多いですが、コムラさんの制作スタイルだとまさしく画家や、彫刻家の制作スタイルに近しいですね。驚きました、そんな一年とかも寝かせておくようなものなんですね。

コムラ

 データは全部保管してますよ!撮影したすぐにSNSに載せることもありますが、ほとんどは展示や写真集のために大切に取ってあります。そしてどこかでお披露目することが決まったら、使用前にモデルさんに許可の確認を絶対にします。撮影から使用するまで1年以上時間が空くことが多いので、そんなに仲良くない人だと連絡しづらかったり、写真を使いづらかったりするから、なおさら仲の良さが作品に影響するんでしょうね。

吉野

 難しいですね。

 さっき絵画と比較する話をしましたけど、絵画でモデルさん使った時にはそういうことは起こらないじゃないですか。描いたモデルさんに「ちょっとこの作品をどこどこに展示したいんですけど〜」ってあまり聞かないと思うし。

 僕も彫刻やっているので、学部生の時の実習でヌードモデルを使用した課題の経験もあるんですが…。その人の裸を見て、それを粘土に写すのも、なんなら絵で描くとかよりも「そのものらしさ」が強い気はしていました。「このモデルさんの身体はこういう形なんだ」っていうのがわかりやすいのは、どう考えても粘土の方ですし。

 そうやって普段は隠している身体の隅々までを「そのものらしさ」がより強い立体に模られて、勝手にどこかで展示されたときにモデルさんは嫌じゃないのかな?とかは思ったりはしました。モデルさんはどういう気持ちなんだろう…とも思ったりするんですよね。

コムラ

 わたしも気になる!自分の姿形の権利がないわけじゃないですか。一回模られてしまうと。アウトラインとか質感とか。

吉野

 でも「写し」ですもんね。権利としては届かないけど、「写し」という事実は間違いなくあって、そいつらを無許可で展示したり、あるいはその後に勝手に複製することもできる。もしかしたらいろんなところに頒布することもできて。いいのかな、みたいな。

コムラ

 そこに抵抗はないのかな。一度始まると止められないことだし。自分が管理できる範囲じゃないから、すごくセンシティブで、気をつけるべき問題だと思ってわたしも気をつけてます。

吉野

 そうですよね、「作品画像」と同時に、もしかするとそのモデルさんの「裸」までもが流れるわけですもんね。

 人間の身体って、もちろん動くわけで、微妙に振動し続けています。それをずっと留められるわけじゃないのに、石像みたいに固定されて…。写真に撮るっていう時点でその留められなかったはずの身体を無理やりにでも固定して、しかもそれを発表する。それってかなり…もっと曖昧だったはずの部分が消し去られて、むしろ「こういう女であれ」的な、押し付けがましいものにはなってしまいますよね。どうしても。

コムラ

 さっき切り取るってことは傷つけるってこと、暴力的だって話があったけど、たとえ女の子がその子の意思でスカートをめくったり、際どいポーズをしたとしても、それをシャッターを押すって決めるのはカメラマン。セクシーなポーズをスルーすることもできる。シャッター=切り取るだからね。

吉野

 あとフレーミングも、ですよね。

コムラ

 そうそう。押し付けでないと言ってるけど、この記事を例に出すのであれば、女性を恋愛対象としている年上のおじさんが自分の意思でフレーミングをしてシャッターを切っている行為自体が「こういう女であれ」という押し付けと一つと言える気がする。

吉野

 そう考えると尚更に、自分自身の身体に対する肯定感を抱いていないとプロのモデルはできないことですね。「わたしの身体をモデルとして提供します」「わたしの身体を見て」みたいな。

 そういえば昨年2019年に会田誠さんの講座に関する騒動もありましたね。事件自体は会田さんが京都造形大(現・京都芸大)で一般公開の講座に登壇した際に、美術モデルをされている参加者の方、大原さんが不快な思いをしたとして大学側を起訴したという話。

 これの記者会見の記録がFNNのサイトにあるんですが、記事中には参考写真がいくつかあって内、「美術モデルを務める大原さん(原告の大原直美さん提供)」って画像があるんですよ。これは多分ポーズ中のものですよね、僕はこの写真がとても面白かったんです。

 これまでモデルさんって…うーん、尊重される自我が希薄というか。絵に描かれる前も後も、もう形として存在しているだけで、その人がもともと自我を持った生命体であるという扱い方をあんまりされる機会が少ない職業だなって個人的には思っていたんですけど。

 でもこの記者会見は大原さんというモデルが自ら実行したというものになっていて、ご自身がポーズ中の画像を公表していて。しかも、この写真をみていてわかるのは、「わたしはモデルという神聖な職業をやっています。」という意思ですよね。

 神聖なのか高潔なのか、しかし「決して下等な職業ではありません」っていう風な意識がまず見られる。自分自身がモデルをしている時の状況を後から他の人に見せていたりするのも結構面白いし。モデルの自我や承認欲求が急にブワッと出ている記事だなと思って。

 …で、これがある意味プロなんだなとも思うんですよ。自分自身の身体を肯定して、露出を許すっていうのが一つのプロのあり方なんだなと。だからこの写真を自分から公開できるんだと思うんです。これがプロ。けれど、友達とかを写真に撮っていくときには全然違う心持ちだというところで…モデルさんの自認によって、コムラさんの立ち回りも大きく変化するのだなとは思いました。

 聞いてみたいんですけど、プロのモデルさんを撮ったことはありますか?撮ってみたかったりする気持ちはあるんでしょうか?

コムラ

 仕事で読者モデルさんを撮影したことがあります。服やアクセサリーを美しく写すのに適していると言われる身体つきや顔、綺麗なポーズはすごいと思う。でも自分の作品ではプロモデルさんにお願いすることはないかな。

 大原さんの話は『攻殻機動隊』を思い出しながら聞いてました。

 たとえば、モデルをしている時の大原さんは草薙素子=全身義体。他者からどの角度で身体を見られても全身義体だから気にしない。大原さんは自分の肉体と“魂”を紐づけていない瞬間があるんじゃないかな。でも一般人はトグサ=そのままの身体。

 『攻殻』のテーマには、自分の存在を認識するときに必要となるのはそれまでの記憶なんだけど、それと同時に肉体との関係性も大事なんじゃないか、って問いがあるんだと捉えてます。作中にも、記憶はあるけど肉体が違う(=作り物、借り物)から、素子が本当に自分は自分なのかと疑うシーンがある。

 大原さんはモデルをしている時は、この肉体=自分という繋がりを切っているから平気だけど、多分講演では“魂”の方を傷つけられたから提訴したんだろうな。ただ一般人は、基本的に自分の肉体、この皮膚の色と形と動き方と傷の痕=自分を構成しているものと思っているから、そんな簡単に人前で脱げない。自分自身、“魂”を見せることに等しい、同じだから。という感じに聞いてました、さっきの話を。

吉野

 あー、わかりやすい。なるほど。そうするとコムラさんが、普段作品制作としてモデルになってもらっている人たちに対しては、「わたしの身体ではないから、見られてもいい」という全身義体的なプロモデルのあり方ではなく、もっと割り切れない人たちを撮っているという自覚があるってことですよね。

コムラ

 そうですね。なんか前にね、3,4年ぐらい前に、自分の身体が大好きっていう人を撮ったことある。肉体も性格も全て好きっていう女性。全身義体っていうよりも、この身体こそが自分と思っている。承認欲求が強い女性。この胸の形、お尻、これこれがわたしなりっていう人がいて。それもプロモデルの大原さんとは違う身体の認識。

 多分3種類いて、①が「見てください!」っていうタイプ。②が自分の高潔な“魂”、“魂”の容れ物としての肉体を別々に考えられるから、作品として使われても“魂”は売られないっていう感覚のモデルさん。最後に③わたしたちみたいにこの身体が自分で受け入れられていないし、それが自分の人生、過去であるから平気で見せられないっていう、一般的なみんなの考え。3種類ぐらいいるんじゃないですかね。

吉野

 そうですね。

 ①全身義体タイプと、②記憶=わたしのタイプと、③身体=わたしのタイプ。

 ①全身義体タイプは「抵抗感はあるけども、全身義体はわたしではない、だから見られる対象はわたしに該当しない」、だから見られても良いという立場。

 ②「見られたら嫌だな」という抵抗感がありながら「見られてもいいポイント」もあって、そのポイントだけを見せているという立場。

 ③「全部見られてもいい」し、なんなら「全部見て」の立場。

 草薙素子は身体は自分ではない、容れ物だと思っているから。だからああいう露出の多い格好ができるのかな…

4.「自分は誰も傷つけないヌードを撮りたい」

–––鑑賞のセクシャリティ、セルフポートレート…

コムラ

 3種類に分けた話の続きで、例えば相澤さんなどはその子の“魂”まで写していない気がしていて。見た目の肉体の塊を扱っているような印象。荒木さんもそうかもしれない。その人の人生とか、その時の思いとか、その子がどう思っているとか、作品が出来上がった後もそういった配慮が見えづらい作家さんに感じます。

 スナップ写真撮る人も、見えてる世界だけ撮っていて、そこに写っている人のことをあんまり考えていないのかなと思っちゃう時がある。あまりにもはっきりとピントが合って、場所が簡単に特定できて、写っている人の顔や服装がはっきりわかる写真に対して抵抗があるのかもしれない。

吉野

 だからむしろ接写、あるいはぼかしてしまうことによって、その人を逆に強く形として、“魂”抜きの身体だけのものとして扱ってしまうっていう話?

コムラ

 っていうよりも、わたしは写真を撮るとその人の顔や身体が写っていれば、その人の人生を写してしまうことだと思うから。それは避けられないから、じゃあ傷つけないためにはどうしたらいいのかというと、寄ること。で、外で知らない人を撮る時は輪郭をぼやかすことで守れるというか、傷つけない、できるだけの配慮なのかなって。今実践しているところなんだと思う。皮膚を撮る時は寄って、風景を撮る時はそこまで寄れないからぼやけさせる。

吉野

 そこは…難しいポイントですね…

 最初おっしゃっていた相澤さんや荒木さんが「“魂”を扱っていない」という話はなんとなくわかるし、多分部分的にはそうだと思うんですよ。配慮が間に合っていない感じはする。

 いわゆるアーティストと呼ばれる人種たちが、イメージする理想像や作り上げたいイメージがあって、でそれを完成させるために一つのパーツとしてその人の身体を扱っている気がするし…まあ荒木さんの場合はそうとも言えない部分っていうのが少なからずあるとは思う。例えば奥さん撮っていた写真なんかもそうなのか?って言ったら、微妙な部分もあるとは思うし。

 “魂”って言葉も結構怪しい言い方ではあるので僕は普段使わないんですけど…でもその奥さんの“魂”なり記憶なり感情なりっていうのをフィルター越しに写そうとしている部分も少なからずあるのかなって思ったりはします…まあ「演出している」って言った方が正しいのかもしれないんですが。

 で、その人たちが「“魂”を扱っていない」とする場合、問題になってくるのは「“魂”をどう扱えるか?」というポイントと、“魂”を扱わずに身体だけを扱う場合に、モデルを尊重した上でどんな風に身体だけを上手に使うことができるかという二つのポイントだと思うんですよね。

 コムラさんが「身体だけを扱う」の責任をあえて回避するために、ぼかした写真なり接写なりしているというのは、僕はなんとなく方法としては理解できます。むしろ真っ当、ルートを辿っていけばそういうところに辿り着くよなという気はするんですけど、一方で責任を回避していると同時に強力に、「形を扱う」っていうことから抜け出せ切れない仕方なさを背負わされている気がする。

 「“魂”と今呼んでいるものをどう扱えるのか」が気にはなっています。

コムラ

 “魂”…と言っていいのか。精神とか?

吉野

 “魂”って言い方するとスピリチュアルな感じになっちゃうんですよね。

コムラ

 内面だね。身体が外見だとしたら。

 確かに荒木さんは妻の陽子さんのことは愛を込めて丁寧に撮っているのがよくわかるけど、他の女性に対しては乱暴に扱っているように見えてしまっていたな。縛ったり、物を入れたり。それは彼女らの内面を侮辱しているわけではないんだけど、ああいう作品を作るんだったら、撮影後の配慮はもっと丁重にすべきだった。

 会田さんも精神/内面と外面を分離させて、外面だけを作品に使用して、モデルさんもどういった扱われ方をしても作品は作品だからって理解してるはず。作品の是非を問うてるわけではなくて。でも、冗談でもズリネタに使ったとか言うべきでなかったとは思います。それは内面への侮辱。内面を守れていない。

 だから、人間性であったり、当時の教育、性教育、ジェンダーへの認識が出るから、作品を作ってもいいんだけど、アフターケアを慎重に行うべきっていうのが、わたしの意見です。

 撮っている時、作品を作っている時まで、モデルさんの個性を尊重すると、作家が目指す作品が作れないこともある。会田さんみたいに。大事にしてたらあんなことできない。でもそれは悪いことではない、モデルとの信頼があれば。

 わたしは撮っている時から撮り終わった時も、それに付きまとわれている。内面と外面への責任に関して。でも見る人によってはコムラの皮膚写真はモデルを物のように扱っている写真のように思う人もいると思う。距離が近いけど、精神的には離れているというか。冷たく見えるけど、モデルさんの個人を疎かにしているわけではなくて、大事にしてるからこそ寄るしかない。わたしがヌード撮るんだったら寄ることでしか内面を守ってあげられないと思ってます。

吉野

 最近はその別の方法として、“ぼかし”というのを主にセルフポートレートで実践しているっていうことですね。じゃあ“魂”を扱うっていうか、“魂”を…精神面を尊重するって言い方のほうがいいですかね。言い方として近いかなってだけなのでどっちかが間違っているとかそういう話ではないですが、尊重するって感じですよね。

コムラ

 そうそうそう。

吉野

 接写も“ぼかし”も、普通はちょっとストレスのある見せ方だと思うんですよ。

 例えば、この画面を観るときに…僕の目の前には画面があって…もしこの画面にすごい目を近づけていったとしたら、一望できない状況にイライラしはじめると思うんですよね。「なんで近くでしか見られないんだ」と、すぐ離れたくなると思います。

近くを見たい時もあるんですけど、全体がどうなっているのかっていうのを確認できない苛立ちがあるからこそ、まずは遠目で全体を確認して、その後にどういうような状況なのかっていうのを見に、近づいていく。鑑賞のための運動です。

 鑑賞するときにどこにフォーカスを合わせるのか、どのポイントをみるか…選択できることがある意味観ることの自由さでもあるし、それが観ることの快楽にも繋がってくる。“ぼかし”もそうだと思うんです。もし今、目の前のディスプレイがぼやけていたら「おいこれ故障しているよ」って思うわけで。本来であればストレスが溜まるはずの状況を「“魂”を尊重する」点において、あえて自ら作品内に取り入れているというのが結構面白くもあり、鑑賞者へのストレスの危険をずっと抱えている状態かなと思ったりするんですよね。

 性暴力の話なんかもありましたが…「覗き」って行為があるじゃないですか。美学の世界では割と普通に言われていることだと思うんですけど、僕は鑑賞する行為にはセクシャルな目線がすでに入ってきていると思うし、覗きにとっての快楽が、実は美術作品の鑑賞と関係した上にあるっていうのを考えたりするんですよ。

 例えば台座の上に彫刻作品が載っていたとする。僕は彫刻の専門なので、めっちゃ観察します。で、めっちゃ観察するときに、作品の背後に回ったり、台座との接地面のところがどうなっているかだとか、人の形をしているものなら顔の造形が…と思考が働くんですよ。普段はそうなのですが、じゃあ例えばスカートを履いている女性像とかがあると、ふと我に帰るんですよね。

 僕は普段の鑑賞だったら、必ずスカートの中を観るんですよ。間違い無く観ます。だって隠されている部分がどういう形になっているかというのを、僕は美術館にはそれを観にきているので。そうでなかったら写真とか、あるいはオンライン美術館みたいな感じで、画面でみるってだけでいいんですけど、実際に作品を生で観ること(これも変な言い方ですよね)、実際に現場に行って、作品を観る経験のときには見えづらいところやもしかすると観てはいけなさそうなところをよく観るっていうのが、僕の作品鑑賞においてとても重要なことなんです。

 多分これは僕が今わかりやすく言っているだけで、あらゆる美術鑑賞者がその欲求や快楽を持っていると思うんですよね。写真作品でもそう。パネルが壁に設置してあって、それがどういう技術によって展示に至っているか、アクリルマウントがどう、とか。どうなっているのかを観ようとするのも、“いやらしい見方”だと思うんですよね。パネルがどういう方法で設置されているのかを観るために、作品の横に回って観察するのとか、覗き見と一緒ですよね。

 っていうような…ちょっと前置きが長くなってしまったんですけど…鑑賞と、性的なと言っていいような“いやらしい見方”っていうのが、すごく深く関係しているように普段僕は考えていて、じゃあコムラさんがやってらっしゃることって、モデルに対しての“いやらしい見方”っていうのを極力拒否して、バリアを張っている状態だと思うんですよね。

 他の美術作品が“いやらしい見方”を受け入れることによって鑑賞をより楽しいものにさせて、いやらしい人々をワクワクさせているという点において、コムラさんの作品が鑑賞の楽しさを放棄しているという言い方もできるし、鑑賞自体を拒否しているという言い方もできる気がするんです。

 “ぼかし”によって眼差される対象にピントが絶対に合わないようにしているのも、作品が、あるいはその作者自身が作品かその中のモデルを見せることを拒否している…ある意味、作品自身の自我が強いなと思ったりもするんです。

 今「自我が強い」という言い方をしましたけど、他の作品ってそんな鑑賞を拒否したりしないんですよ。拒否する部分はまああるのかもしれないけれど、そこまでわかりやすく拒否をしていないというのはあって…

 なんか今までセクハラが…おじさんが…事件が…と話をしていたことと、“ぼかし”の話がすごくわかりやすく繋がったのが面白いなーと。

コムラ

 そうだね。わたしも美術館に行ったら細かいところをみる。彫刻だったら下を覗き込んだり。

吉野

 絶対スカートの中みますよね?

コムラ

 みるみる、絶対みるよ。

吉野

 別に僕がそういう偏見を持っているとかでもなく、一般的に男性はスカートは履かないじゃないですか。おそらくこれは女性を想定して作られたんだろうなという形が、スカートっぽい形のものを身に着けている。それが女性の形を表している…として、もしコムラさんがそれを下から覗きこむとかだったらそんなに問題はないと思うんですけど…

 僕は「性的に見る」みたいなことに対しても気にしているところがあるので、気になってしまうんですよね。多分誰も僕のことなんて気にしていないことはわかっていながら、美術展を観にいったときに、他人の目から見る自分の振舞いを気にしてしまい、美術展での自分の動きとかを結構気にしてしまうんです。僕は。

 だからスカートの形をした中を覗きこむみたいな動きをしたくないんですよね。だって他人からみたら、いくら彫刻とはいえ、「スカートの中を覗き込んでいるヒト」「覗き込まれているヒト(の像)」みたいに関係が見えてきてしまうじゃないですか。どうしてもそう見えてしまう瞬間があるので、そこに入りたくないというのがあって…いつも抵抗感があって、結局満足するまで観る、というのを諦めたりもするんですよね。

コムラ

 作品を見る時にセクシャルな見方は必ずつきまとうっていうのは、自分もそう見てるし、他の人もそう見てるだろうっていう決めつけがあるっていう前提の話で。

 裸自体をみせること、スカートの中のパンツを覗き込む行為自体は、わたしは全然問題ないけど、いろんな人間がいる社会の中で、パンツを見た時に「こういうパンツを履いてるんだったらこういう女性に違いない」「こういうパンツを彫る作者は変わった性癖に違いない」とか、二次的な感想が生まれるじゃないですか。パンツを覗き込んだ次に生まれる二次的な感想の拒否があるんだと思う。

 身体全体を写すこと、それをどこかに展示することは、もしかしたらわたしは意外といけるのかもしれないけど、それを見た人が思う二つ目の感想…胸がある、胸が大きい小さいな、エロいなとか。そういうことがしんどいんでしょうね。その感想は写っている人を傷つけると思う。そこを守ってあげるために、楽しいポイントを失う。鑑賞を拒否する。一つの見方でしか見させない。この皮膚はここでしか撮ってないんで、この範囲で楽しんでくださいみたいな。ぼやけてるのもそういうのに繋がってるんだと思う、これで鑑賞してくださいねっていう。じゃないと、あなたが思う二つ目の感想は写っている人を必ず傷つけるから。足が短い、服のセンスが悪いとか。わたしはモデルを配慮、尊重すると、どうしても作品を鑑賞する人へはストレス、負荷がある作品になるんだろうね。

吉野

 そうですね。お話を伺っていて、だんだんとコムラさんの作品をめちゃめちゃ好きになってきたんですけど(笑)

 なんだか、ひねくれてんなって思うんですよ、コムラさんの作品は。ひねくれてるんですけど、多分ご自身が事件とか嫌なこととかがあったりしたのも含めて、切実なんだろうなと。切実だからこそ、めっちゃひねくれてるなと思いつつ、全然馬鹿にできないし(馬鹿にするつもりもないですが…)。

 前述の『エトセトラ VOL.3』のインタビューでも「誰も傷つけないヌード」っていう結構わかりやすいステートメントを出してらっしゃいましたけど、それが写真というメディアにとってどういうことかというと、要するに「誰にも見せなければいいんだ」っていう結果に落ち着くんだな、と思って。

 だってそういうことじゃないですか、“ぼかし”も、接写も。それぞれ「見せていない」わけじゃないんだけど、両方とも、実質的には「見せていない」よね、と。

コムラ

 見えづらく、見えづらくしているね。

吉野

 うんうん。普通に写真撮ったら見えづらくなるわけないじゃないですか。見えやすくなっているはず、だって写真はトリミングでもあるのだから。トリミングはその一点が見えやすくなる効果を持っているとは思うんですよ。切り抜かれた対象に意識を集中しやすくさせる、一つの技術だと思うんです。その技術を用いながらにして…。というかそもそも写真として発表しているのに見えづらくしているのは何?とか。

 見えづらくしたものをわざわざ見せる、そのひねくれた状態。僕はこれをすごい良いなと思いつつ、結構大変な道なんだろうなと思ってもいます…

コムラ

 なんか…それはすごい痛いところを突かれたと思っている。

 それは、最初の話に繋がるけど、絵が好きだったってとこがあって。絵は描けない。努力もできない。向いてない。でも写真は押せば撮れるメディアなんだよね。映像もそうだけど。カメラっていう道具を介することで自分はアーティストになれた。表現を許された、表現が可能になったタイプの人間なんだけど。だから自分は写真にすがることしかできない人間。でも、じゃあ絵を描けばいい、何か立体物を作ればいい、インスタレーション、いろんな可能性があるんだろうけど、自分には写真しかないんだと思っている。絵を描く技術もないし。押せば撮れるメディアで頑張りたいと思っている。だから、これからも写真にしがみついていくんだろうけど。

 さっき吉野くんが言ってた「責任を回避していると同時に強力に、「形を扱う」っていうことから抜け出せ切れない仕方なさを背負わされている」。それも本当にそうなの。写真に固執してるから形を写し取る、それが写真じゃないですか。たまに杉本博司さんみたいな長時間露光で光を写す写真家もいるんだけど。わたしは人を撮りたいから、人は形だから。自分は誰も傷つけないヌードを撮りたい。ぼやかして、寄ることで誰も傷つけないんだって。やればやるほど形を失っていくというか。写真である必要性はなんだったんだろう。写真の特徴から逃げないと出来ない。ってことにずっと気づいている。薄々と。そうだと思っている。

吉野

 痛いところっておっしゃっていたのですけど、でもだからこそ「他人を写す」じゃなくて「自分自身を写す」、コムラさんのセルフポートレートの挑戦をすごい良いじゃん!と思ったんですよね。

 「他人を尊重する」「他人の内面を尊重する」のところでも話に挙がりましたけど、写真というメディア自体が他人が関わりやすいし、他人という存在が入り込みやすい。なんなら自分自身も他人になりうる可能性すら秘めているような。自分以外、「他」が出てくるメディアの中で、モデルを扱う、他人を撮るとかではなくて、自分がシャッターを切って、自分が写るっていう最小限の作品制作をやってらっしゃるなと思っていて、それをすごいいいなと思ったんですよ。臨床実験ならまずは自分の身体使えみたいな(笑)それを実際にやっているのは、僕はとてもいいことだと思います。

コムラ

 あと、自分を撮る時でさえ守りたいんだよね、被写体としての自分を。写す側の自分と写される側の自分が同居してる最小限の数でやろうとすると。自分だからいいや、写してるからいいやじゃなくて、写されている自分を大事にしている、写している自分よりも。そういう感じはした。やってみて。実は合間合間にピントあってる写真も撮ってるんだけど、公開はできないな…って。

吉野

 自分自身の姿を写してる写真って、キャプションでセルフィーとかって書いてるんでしたっけ?

コムラ

 HPだと「selfie」ページがあって、Twitterだと時々「selfie」って書いてるよ。

吉野

 そっか、selfieって書いてないとわかんないから、selfieって書いてあったのを見たんだろうな。書いてないとわかんないっていうのも面白いですよね。

コムラ

 そうそう。姿形をなるべくぼかす、輪郭を失わせる。物理的なアウトラインもそうだし、わたしっていうプロフィール、出身、年齢も。全部ぼやかすことがすごく心地よく思えてて。安心するというか。でもわたしが知っている写真とか、日々ネットで見たり、今話題に上がった写真家とかは、みんなくっきりはっきり、誰が写ってるとかどこで撮ってるとかがよくわかる写真だよね。ピントとか、人物の表情とか。それが作品の良さなんだけど。全部ひねくれた方向で、新しい道を見てみたい。否定したいわけじゃない。

5.影響を受けた作家は誰ですか?

–––2つの欲望、嫉妬とスキンケア、写真の本質

吉野

 ここまでで任航やメイプルソープの名前も出てましたが(2章)、ほかに影響を受けた作品や人物などはありますか?

コムラ

 上田義彦さんは『M.Ganges』(2014年)という写真集に強く影響を受けているんですけど、なんかまず色が美しくて、定点でガンジス川を撮っていて、で共に写り込む人もボケてしまっていて、みたいな。なんかね、よく写そうっていういやらしさがない写真集だなって最初思っていて。でも写真集を見てすぐ影響を受けたわけではなくて、1年ぐらい経ってから。

 写真って、仕事だと特にピントが合ってないと使えないことがあって。ブレてて脈動感ある写真がいい場合もあるけど、基本はピントを合わせていかなければならない。でも『M.Ganges』を見て、ぼやけていてもちゃんと伝わるし、良い写真だって、肯定された感じでした。

 あと、マン・レイ。もともとシュルレアリスムのルネ・マグリットとかがめっちゃ好きだったの。マグリット、サルバドール・ダリ、マックス・エルンストとか。その界隈にマン・レイがいて、その延長から知ったんですけど。彼も主にヌード写真だと、女性を撮っていて。女性の体のフォルムを物体に落とし込むセンスが素晴らしい。もちろんマン・レイが撮ったモデルさんの名前とかは全部残っているんですけど、でもその人を撮っているというよりもその人の身体を使って作品を作っている印象があって、エロくない。エロくないのがいいな〜っていう。なんか、女性の身体って面白いんだなっていう風に、思えたきっかけで。

 そのあとにメイプルソープを知って、男性のヌードもすごいぞ!と。マン・レイや荒木さんぐらいしか知らなかった時期は、ヌード=女性だと思っていた。男性のヌードも被写体になりうる、ヌードの題材なんだって知って、あとメイプルソープで好きなのは、花も撮っているところ。あれを見た時に、人じゃなくても人のように撮れるんだなって。

 中村立行さんも好き。立行さんは大学生の時から知ってたけど、記憶の片隅にいってて、2年ぐらい前に再認識しました。すごくかっこよくて。全身を撮っている写真もあるけど、部位を切り取ったもの、顔や全身が写っていない写真が好き。もともと東京美術学校(現・東京芸大)の油絵科で、ヌードはエロスのない「造形美」の描写するものっていう考え方がいいな〜と。女性の造形美めっちゃいいなって。そのスタンス、女の身体をかっこよく描くという粋な心意気が好き。影響を受けているというか、好きな写真家。

 セルフィーで、鏡の指紋、埃、水垢に焦点を当ててる写真は、ソール・ライターから影響を受けました。Bunkamuraの展示一度目(2017年)、二度目(2020年)のどちらも見に行って、鏡越しに撮影した作品を見て影響を受けました。

吉野

 へえ。かなり明確に出てきましたね。

 中村立行さんの作品について造形美という言葉出てましたけど、彼の作品は克明な描写のある写真ですね。彼の作品のようにしっかり描写がなされている、鮮明に輪郭まで写された写真にはなんとなく、ある全ての顔料の載った面がレンズに一寸の隙間もなくピタッと張り付いている、そんなイメージを持ちます。レンズと被写体との間に挟まるものが何もなく、一切の距離が保たれない場合において、描写というものは発揮されると思うんです。

 一方で…上田義彦さんの『M.Ganges』とかの“ぼかし”などは、被写体とカメラレンズとの距離がしっかりある写真だと思うんですよね。レンズと被写体の間に何かが挟まっている感じがする。もどかしいような状況がむしろ、被写体と撮影者との距離を正確に表しているっていうふうには感じられて。

 なので上田さんと立行さんの写真って、見てわかるんですけど、全く正反対の写真だなっていうふうに思うんです。メイプルソープも立行寄りで、マン・レイとかになってくると、僕はどちらかというと上田側かなと。コラージュとかソラリゼーションとかの技術を間に挟み込んでいて…。間に挟む、それはガラスだったりアクリルだったり空気の層であったり、なにかを挟んであるような感覚ってすぐに被写体の表面を眼や指で撫でることができない状態っていうのが、マン・レイにも上田さんにも共通して言えるのかなと。ソール・ライターもわかりやすく上田さん側ですよね。

 それらの全く異なった二つの作品傾向があるように思います。それに対するコムラさんの感覚ってどのようなものですか?…これは「今後の作品はどうなっていくのか?」という質問にも繋がってくる内容だとは思うんですが。

 この5名が出てきたということは、コムラさんの中に二つの繋ぎきれない欲望があると僕は読み取るんです。それが、造形をしっかり追いたいのと、追いたいのだけど一方で被写体のことを蔑ろにしない、傷つけないためにあえて鑑賞者や撮影者から距離を取りたい、そのための“ぼかし”、というふうに思えるのですけれど。

 どう思いますか?

コムラ

 そうなのだと思う。圧倒的な造形美に打ちのめされるの。美しいな、これこそが作品だ!みたいな。写真らしい作品だって。自分が美しいと思うものを美しく見せること、写真の本質のような部分。でも、立行さんもメイプルソープも被写体が美しんですよね。もしかしたら病気や不自由さを抱えているかもしれないけど、だいたいのモデルが若くて肉体が締まっていて、スタイルも良くて美しい…

ってなった時に、それに比べて自分は一般的な身体つき。顔も整っていない。外観に対する憧れや嫉妬もあって…だから立行さんやメイプルソープは好んで撮っていたモデルをわたしも美しいと思うけれども、でもわたしは立行さんやメイプルソープに選ばれるような人間ではない。彼らに選ばれるような身体を持っていない、という矛盾した気持ちが、ある。だから造形を追いたいとも思うけど、でも自分はそうはなれなかった身体を持っている。

 かつ、それはわたしは鑑賞者として彼らの撮影した身体を美しいと思うけど、実際モデルの立場になった時に、自分の性器とか胸とか全身、顔が、ずっと知らない人に見続けられることはどうなんだろうなって。前述した「傷つけたくない」っていう葛藤がある。まだ決着はついてない。傷つけたくなくてぼやかしたり距離を縮めたりしてるけど、それをしているのはそこに憧れがあるからというか。どうしたらいいんですかね…

吉野

 そういやコムラさんって化粧オタク、らしいじゃないですか(笑)

 今立行さんやメイプルソープの被写体に選ばれる存在ではないわたしという話で、自分の外見への自信の無さというのを教えてくださったのですけど、それと化粧って繋がったりしないんですかね。

コムラ

 絶対繋がってると思いますよ!化粧の中にスキンケアも含まれるんですけど、どうにかして良くしたいっていう気持ちは、お肌のコンディションを調整したり、アイシャドウの色を吟味したり、そういう理由になってるとは思う。

 逆に不思議で、若くて美しい女性が写ってて、誰が見ても容姿が整っていると。みんなその写真を見てそういう汚い気持ちにならないのかな?と思う。「いいよな、可愛く生まれて」みたいな。

吉野

 あー。憧れと、少しの妬み嫉妬みたいな。

コムラ

 そうそうそう。努力もあるって知ってるけど、この骨格とかスタイルは生まれつきやん、みたいなどうしようもないところ。でもみんなはいろんな写真家の写真やインスタをみて、“いいね”をしているわけじゃん。美しいね、綺麗だねっていうふうに。

 そこにそういう感情はないのかな。みんなピュアで生きていけてるのかな。自分だけが闇堕ちみたいなことになっているのかなって思う(笑)つまり割り切れないんですよね、被写体っていうふうに。人間としてみちゃうというか。

吉野

 被写体をわたしだと思って撮るのに関係はしてますよね。

コムラ

 そうだね、これは悪く出ちゃってるけども。

吉野

 いや悪くはないですけどね、悪くはない。

コムラ

 いやでも汚い感情だから(笑)役には立たないけど…

 でもぼかしたり距離を縮める作品を撮ったところで、果たしてみんな見たいと思うのかな。みんなが見たいと思うから作るわけではないし、それは作品じゃないし、広告とかデザインになっちゃうんだけど。でも今を生きるアーティストとしてお金が欲しいとか、作品が売れてほしいと思った時に、このスタイルをやってもみんな見たいのかなって。ぼやけてたり、距離が近すぎる写真を。そういった現実的なことを考える時もある。

吉野

 現実的なことを考えた時に、どうしようと思うんですか?

コムラ

 それな〜…それな。でも結局どうもできないから、ぼやけたり距離を縮めた写真を撮っていくんだろうけど。

吉野

 今コムラさんのセルフポートレート、ご自身を鏡越しに撮ったらしい写真をずっと見ているんですけど、表面的に描写するとか外見的美しさをとかっていうのじゃなくて、なんかもうこれ、なんとなく存在している状態を表しているっていう感じですよね。人じゃないのかもしれないし、人でもいいんですけど、「ここにいる」「ここにいた」とかっていうような。

 よく考えればそれってロラン・バルトが『明るい部屋』に書いた、「それは-かつて-あった」という写真の本質に非常に近しいものですし。存在を記録するという最も原初的な機能が、コムラさんのぼけたポートレートなのかなって思ったりもして。すごく禁欲的なんだけど、すごくストレートな〈写真〉をやってるかもしれないって思いました。

6.いつか失明するんじゃないかと不安を抱えて

–––わたしは目が悪い

吉野

 あ、あの、話が急に変わるんですけど。前に話題にあがったので…目が悪いの話ありましたよね。

コムラ

 2020年の4月ごろにTwitterで、中国の人がわたしが撮ったぼやけた風景写真に「我的看法(もしくは我的世界)」とコメントをつけて引用リツイートしてくれたんです。で翻訳で調べたら「わたしの視界」って書いてあって、「あ、この人も目が悪いんだな」って。

 わたしは小2くらいからもう目が悪くなって。ちっちゃい頃のわたしはいつか失明するんだって父親に泣きついて寝たこともあった。その、目が見えなくなることへの不安を抱えて生きているんですけど。

 こないだコンタクトしたまま寝ちゃって、起きたら電球の周りにでっかい虹が見えていて。虹視症っていうんですけど。虹視症って急性緑内障の症状の一つだから焦って、失明するんだ〜!もう自殺するしかない〜!って同居人に泣きついて(笑)次の日朝一で眼科行ったらただの疲れ目だった(笑)

 っていうこともあったんですけど、とにかく、普段から目が悪い、いつか失明するんじゃないかと不安を抱えて写真をやるっていう矛盾。盲目の写真家もいるけど…

 でも、わたしにとってのぼやけた風景は視力がいい人に比べて特殊な世界ではないというか。ぼやけてるのもまた一つの世界で。

 コンタクトや眼鏡というフィルターを通して、わたしはやっとピントが合った世界を見れるけど。だからさっき吉野くんが「ぼやけてる写真はカメラと被写体の間に空気とか鏡とか、何かしらの距離を生むような物体がある」と言ってたけど(5章)、それはコンタクトみたいな感じで、それをつけるとピントが合っちゃう。逆になってるかも。何もないと(コンタクトを)外すとゼロ距離になると、ぼやける世界が待ってるから。落ち着くのかもしれないね。ぼやけてる方が。本当の世界だから、わたしにとっての。

吉野

 へえ〜。落ち着くっていう感覚、僕ないんですよね。

コムラ

 (ピントが)合ってる方が落ち着く?

吉野

 うん、合ってる方が圧倒的に落ち着きます。

 コンタクトを外している時の不安が本当に半端じゃなくって。見えないとか動けないとかそういうのじゃなくて、急に自分が世界に溶け出してしまったかのような感覚にちょっとなるんですよね。

コムラ

 わかる。世界を認識できない世界に自分も入ってて、誰も自分を見つけてくれない、自分も同じくぼやけてるんじゃないかって思う時がある。

吉野

 そうですね、具体的に思っているわけじゃないんですけど、なんとなーく今考えてみると、自分の輪郭がアメーバみたいな状態になっているように感じるんですよ、ほやほやほや〜って。で、なんか主観的な輪郭を掴めなくなるっていう自閉症の症状にも似てますけどね、そういう感覚って。

 自分の輪郭が掴めなくなっちゃって不安になってしまうような感覚が僕はあるので、僕はコンタクトをずーっと着けていたいし、かといってメガネも僕は一切着けないんですよ。

コムラ

 嫌いなの?

吉野

 そう、メガネ無理なんです。頭痛くなっちゃうし、視界(メガネレンズ)の淵に違う世界が写っているのめちゃめちゃストレスなんですよ。視界も歪むし。

コムラ

 でも吉野くんの話聞いてたら、確かに天気がいい日にぼやけてるのはしんどい。わたしがコンタクトなくてぼやけてるの気持ちいと思うのは、寝る前に外して、家の中とかがぼやけてることがいいのかも。だから全く知らない土地でぼやけてたらストレスでイライラする。わかりたいのにわからないから。自分が見知った世界だと、ぼやけてる方が何も情報がこないから、なんか宇宙空間に行けるみたいな。情報が遮断される…?そういう心地良さかも。

 今吉野くんの顔やメモが見れなかったらストレスかも(笑)見えないのは絶対嫌だね、確かにね。

吉野

 (レンズがなくても)見えるんですけどね。見えるんだけど、見えないって言っちゃうし、実際見えないんですよね。これはわかってもらえると思うんですけど。

コムラ

 小学生の時、視力検査は同級生の前で行われてて、他の子に比べて見えないことが周りにも知られることが辛かったな。見えるかどうか質問され続けるのも、見えないことが悪のように思えて。でも今は視力検査の時には見えなくてももう傷つかないんだよね。見えないです〜と言える、割り切ってるから。でも中学校ぐらいまでは見えないことがすごいショックだったかも。

 だから見えない世界を今は肯定的に捉えてるし、それを実践して撮ってるけど、小学校中学校も自分の視力がコンプレックスに思えてた時は、見えないことは劣っていること、欠損だったから、今みたいに思わなかったかもね。大人になったから思えるのかも。その眼鏡、コンタクトっていう課金をしたら見れるっていうことを知ったから。

吉野

 メガネやコンタクトを課金って表現する人初めて会いました(笑)

 うーん、僕も見えないのは結構関係してるんですよ、関係していて。

 僕はまず怖がりなんですよ。動物とか虫とかが無理だったりして、暗いところ歩くのも嫌で、だから自分ちの中も普段怖いなと思いながら歩いたりしていて。ジェットコースターもスポーツもダメで、一般的には僕は本当に怖がりなんですよ、多分。机座って喋ってるのが一番楽で楽しいし(笑)

コムラ

 じゃあ本当に、予測できない他者の動きであったりとか、自分の動きとか、認識しづらい空間が怖い、みたいなことなのかな。

吉野

 そうそう。そうです。世界が止まってくれてたら安心だなって。

コムラ

 え、二次元向きじゃん。

吉野

 二次元向きですね。一般的に、彫刻とかは三次元じゃないですか、だからといって彫刻に対して恐怖を強く感じるというわけでもないんですけど…

 僕は扱っているテーマが見えないことと見えること、例えば見えるものを見えないように演出したり、逆に見えないものを見えるように演出したりすることを僕は極端に「嘘だ、嘘つきがやることだ」というふうに認識していたりとかするので、そういうことにすごく反応してしまうんですよね。

 これまでそういうことに反応してきたからこそ、台座とかを僕は嘘つくための道具だと思っていて、例えば電気を使う作品なら、電気の配線を台座内に隠すとかっていうのも一つの嘘だし。台座自体の上にモノをぽんと置いた時に、その価値が違ったものに見える、ゴミを台座の上に置くとゴミじゃなく見えてくるようなことも一つの嘘だと思うし…。というような感じで制作に関するキーワードを見つけ、反応してきた感じがあるんですよね。で最近調べてるのは、人形、人形劇、手品、とかで、それも全部嘘とか、裏で何かやっている人物とか、あるいは手品だとミスディレクション…。片方の手に注目をさせておいて、反対の手で何かをすり替える動きをしていたりすること。人を騙すような動きに興味があったり。他に催眠術、心霊研究なども。

 これら全部まとめて、視覚にまつわる情報がぎゅっと詰まっていて。触覚とかにはあんまり反応した機会は多くないんですよね。

 見えないから触るとかではなくって、見えないから見えることに固執しているような感じがあります。

 コムラさんが近視の経験を持ちつつ、ぼけた写真を撮っていたり、トリミングを…って制作してらっしゃることには、なんとなく身体的な近親感覚がありつつ、反応の仕方が全然僕とは違うのが興味深いですね。それで寝る前の安心感という話が出てきたのも、余計に面白いですし。僕は安心感ゼロですからね(笑)

コムラ

 怯えてる(笑)

 じゃあ赤ちゃんと一緒だね。赤ちゃんは生後すぐは見えないじゃん。

吉野

 え、そうなんですか?

コムラ

 だんだんわかりだすんだよ。近目で見たときはわかるけど、なんか最初は目が悪いらしくて。何ヶ月かなんかではっきりしだすらしくて。

吉野

 へー!

コムラ

 だから吉野君は赤ちゃん、視覚においての。

吉野

 そうか、赤ちゃん視力なんだ(笑)

 見える範囲じゃないと不安になって泣くんですね…笑

コムラ

 赤ちゃん視力精神だ、視界に関しては(笑)

7.「自分の身体はいろんなところにある」

–––化粧、美容整形…

吉野

 あと化粧オタクの部分について、プラスでお聞きしたかったことがあったんですけど…お化粧って何故しているんですか?社会的に求められてると感じるからなのか、自分を美しくしたいという欲求が強くあるのか、化粧品自体の魅力に引っかかっているのか…

コムラ

 最初は社会的必要があるから、みんなやってるからやってました。でも今は買うのも見るのも好き。自分を肯定してくれる道具としても、化粧品に可能性を感じますね。顔の造形は変えられないけど、自分の好きな色を身につけられる。好きな色を身につけることで越えられる壁があるみたいな…精神論だね、これは。自信がない自分を少し強くしてる装備だから。化粧っていう文化も好きです。

 …あっ、思い出した!写真集を入稿する半年ぐらい前(2019年)に化粧品にハマった。もともとイエローベースの色が好きだったんだけど、パーソナルカラー診断で1stが春で2ndが秋と知り、写真集を構成する時にほとんどの写真がイエベになったことが面白かったんです。それは化粧品関係から影響を受けたかも。WebやTwitterにあげてる写真もイエベ好きの写真だと思ってもらえれば。

吉野

 やっぱり、画面を自分だと思ってるんですね。極端に自分だと思っていらっしゃるんでしょうね。

コムラ

 そうだね。自分なんだね、自分の顔とか身体なんだね、写真が。

吉野

 整形とかも美容の手段ではあるじゃないですか。立行さんやメイプルソープなりに選んでもらうため、っていう感じで考えるのであれば、美容整形も考えうると思うんですよ。お金があるないの話はあると思うんですけど、整形とかはどう思っていますか、抵抗感はありますか?

コムラ

 1億円くらいあったらやりたい!けど、どうだろうな〜。

吉野

 化粧の方がいいですか?

コムラ

 うーん。もしかしたら、自分の容姿好きじゃないけど、精神力が足りないのもある。例えば、すごい言い方だけど、わたしみたいな人はいっぱいいるじゃん、いっぱいいるのよ。悩みのことも、こういう見た目の人も。ってなったら、手術をしなければいけないって思うほど悲観的になる必要はないんだろうなって自分でもそこで踏み留まるの。自分みたいなやつ他にもおるで、っていう。自分は特殊な悲劇ではないっていうことで。

 だからそれも全部「それでもいいじゃん」って思える精神力が欠落してるから、自分を撮る時は絶対ぼかしたいんだろうなと思うんだけど。ありのままの自分はやっぱりしんどい、けど優しくしたいって気持ちもある。

吉野

 「整形できるんだったら絶対すぐしたい」っていう人もまあ必ず世の中にはいるじゃないですか。そんな中、整形や化粧の感覚ってコムラさん自身が元々ペインティングをやりたかったっていうところからもしかしたら化粧の方に行って…っていうのがあるんでしょうかね。

 編集ソフトとかでもカラーを変えて統一するだとか、トリミングをしたりだとか、表面あるいは平面的な操作じゃないですか。顎の骨を削るとかも、一種のトリミングですよね。その辺を制作においてのみ行うか、実際に自身の身体で…立体的にと言ってしまっていいのかわからないですが…美容手段という整形を実行してしまうのかどうかが、なにか関係しているかな〜と思って、試しに聞いてみた質問でした。

コムラ

 そっかそっか。確かに依頼主から要望があればPhotoshopやLightroomで細かくやりますよ。シミやにきび跡、ほうれい線とかも修正します。

吉野

 ほうれい線とかシミとかを消している時に、残しているシミなり皺があるのは面白いですね。完全に消さない。

コムラ

 そうだね。「不気味の谷」みたいになっちゃうので。あった方がいい皺やシミはこれまでの撮影経験で感覚でわかるし、けれどこのシミは確かにない方がいいなっていうのもわかる。

吉野

 しかも残している時って「不気味の谷」を回避するためとかではなく、普通に画面の中心にそれがあったりするじゃないですか。見るべき対象としてシミなり皺なりが用意されていて、一方で消されているシミや皺もあるっていうのが…面白い。

コムラ

 今自分で話していてちょっとこうかもって思ったんだけど、デジタル写真をやって、LightroomなりPhotoshopなりAdobeのソフトを使うと、造形を、人の顔や身体を簡単に変えられることを知ったんですね。というのも、前職(1年だけ会社で働いていました)がレタッチャーのプロデューサーだったので、Photoshopをやってる人たちを身近に見ていて、みんなが知っている芸能人も商品も背景にも修正かけられていく様子を見て。二次元では思い通りに変えられるっていうことが残酷であり、希望にも感じました。

 だから現実の三次元の自分の顔面や骨格や外観が気に食わなくても、二次元になれば嫌いな輪郭も溶けていくし、鼻の高さも関係なくなるっていうのは、わたしにとっての上手に生きるための一つの手段というか。自分を一回二次元に落とし込むことで、自分を好きになれる作業、自分を再確認とか、肯定できるのかもしれない…と、喋ってみて。

吉野

 二次元では思い通りに変えられる、残酷な部分もあるっていうのを自覚してる点で、ずっとわかってはいたことですけど、コムラさんは制作の中でサイコな部分が結構出ていると思います(笑)

 コムラさんは残酷なことを自覚しながらやるっていうポイントがお話を伺っていても結構多かったりする点で、やっぱり写真家としての被写体との距離感や、他者みたいな感覚っていうのがどこかしらにあるんだなっていうのは、たまに出ますよね。被写体のことを自分だと思っている、思うようにしていると言っておきながら…残酷なことをしている自覚が一方であったりとかして。

 撮影をするっていう一次的な制作と、編集という二次的な制作、違ったタイプの時間がいくつか挟まるので、作業の細かな段階によって、残酷さや残忍さみたいなのがちょっと出たりだとか。なんか急にめちゃくちゃ写真家っぽい脳になってしまう時と、被写体・モデルとして「わたしも共感している」っていうような状態とがあるなって。

 お話を伺っているとさっきから、どっちにも行くっていうのがあらゆる点でありますね。立行さんと上田さんの比較の話もそうですし。

コムラ

 だから自分の身体はいろんなところにあるっていう感覚で。もちろんこの身体(今吉野くんと話している身体)と、セルフィーを撮る時の身体と、他人を撮る時の身体と、立行さんが撮ったモデルの身体、メイプルソープ、ソール・ライター、上田さん、荒木さん、相澤さんが撮った身体っていうふうに。そういう感覚かも。“行き来”という言い方もできるし。様々な体を持っているというか。

吉野

 そうですね。自分の身体がいろんなところにあるって考え方は面白いです。

コムラ

 そうかも。だからいろんな人の身体になって、自分と対になってる相手のことを考える。鑑賞者なり、モデルなり、カメラマンのことを考えると、残酷だってことを自覚せざるを得ないというか。

 一つの立場だったらわからないことも、逆の立場になると「あっ、嫌なこと酷いことをやってるな」とか強制させているなってことがわかるけど、メインのこの身体は写真家ボディだから、自覚してはいるけど、それをやるしか自分の道が無いというか…。無いというと固いけど、メインは写真家だからこそ、残酷ってわかっててやるんだろうね、いろんなことを。

8.エピローグ

–––このあとはどうやって撮るのだろうか…服の価値?

コムラ

 「この後どうするのか」がちゃんと話せてないな…。

吉野

 じゃあ僕の方から話すと…セルフポートレートの試みがめっちゃいいよねっていうのは言ったような気がするんですけど。ここまで話を伺ってみても、主題にあった制作内容だとは強く思うんですね。被写体のことを自分だと思って撮影しているという話からしても、最もストレートでわかりやすい内容だなと。

 “ぼかし”って磨りガラスと同じように、遮蔽している。遮蔽物が入っているからこそ、奥にあるモデルの姿がぼやけて曖昧に見えてくるのかなと思います。コムラさんはこれまでモデルのあらゆる部位をクロースアップして撮影されていますけど、“ぼかし”とセルフポートレートの表現を合わせた一つの案として、自分の裸をぼかして撮影することとかは考えたりはするんでしょうか?以前には裸を撮影していたという話もありましたけど。

コムラ

 3、4年前から自分の身体撮っていたんですけど。顔は写ってないけど、お尻とか全身が写っててピントも合ってるような。今は…一応セルフポートレートとしてのヌードも撮るんですけど、まだ模索中というか。単純に自分の裸を公開することが恥ずかしいし、怖い。

 吉野くんに聞いてみたかったんですけど、写真家のヌードセルフポートレートの作品ってどう見てますか?わたしは脱いでる写真家のセルフポートレートは「脱いでるな」って情報が強すぎて、その先の制作意図まで辿り着けないんですよね。どうしても「この写真家はこういう身体つきなんだ」って余計なとこで止まっちゃってて。

 だからもしかしたら今後はぼやかしたり、磨りガラスみたいなものにピントを当てることで、和らげるヌードセルフィーもやるかもしれないけど、簡単ではない…。いい作品にしようとすると簡単ではないですね、適当にならすぐ撮れるけど。

 自分を題材とすることへの恥みたいなのが、ヌードだとすごく出てくる。撮ることはできても、発表することが難しいっていう感覚ですね。とか、今までの経験で、自分の裸を載せるような写真家ってなった時に、変な人が近寄ってきたらやだな。二次災害みたいなことも考える…かな。

 5年ぐらい前までは、服があることで撮る時に服がカメラと被写体の間に邪魔をしているもの、弊害物として見なしてたから、全裸がいいと思ってたんですけど。流行りとか素材とか色とか、情報が多いので服は。そういう風にモデルさんに説明して納得してもらって脱いでもらうっていうのが、初期のわたしの撮り方だったんですけど。

 でも今は化粧がいい例で、その人の意図、その人の好きな色や形を着て、撮ること。だからランドスケープもそれぞれみんな結構個性のある服を着てて、コロナでも。だからわたしも「今日のセルフィーは、昨日はピンク系だったから今日はグリーン着よう」とか(服ありきで写真を考えるようになってきている、特にセルフィー)。なんかそういうポジティブな意味で、服を一つの要素として、舞台美術的な演出の一つとして。演出だけど、服をその人の一部として見なすことができるように、なってきたかもしれない。だから今は服を着て撮ることに抵抗がないというか、邪魔に思えない。手がかりの一つとして…作品を彩る一つの手段になれるのかなって。そういう心境の変化はありました、服に関しては。あれ〜話がずれちゃったな…

吉野

 ずれてないと思います、大丈夫です。

 服を情報が多く、かつ身体を撮影する時の弊害になるから避けてたというふうにおっしゃっていて、今は服を演出するものとしてっていう話をされてたんですけど。さっき僕が“ぼかし”とかの表現の時に「遮蔽物」とか「間に挟まるもの」っていうことを言っていた(5章)のも、イメージはレースのカーテンなんですよ。

 で、ちょうど僕もこの話の流れで服の話にいこうと思ってたんですね。ただ、「情報が多いから服を避けていた」っていう話から始まると思っていなくて、面食らいました。むしろ、服を歓迎しながら話し始めるのかなってなんとなく思っていたんですよ。

 「誰も傷つけないヌード」とかってなってくると、その防護の手段として服を着るっていうのが一つの手段になってくるのかなって思っていたし、それが服や“ぼかし”の、どっちにいくかという話になっていくというふうに考えていたら、意外と「演出」とか「邪魔をするもの」とか。なんか僕が全然想像してなかった方向から服が批判されたり、取り上げられたりとかしていて、あ、そうなるんだって(笑)

 ところで途中「写真家のセルフポートレートで、裸の作品をみた時にどう思うか?どう見ているか?」というようなことを質問されかけた気がしたんですけど…。僕はといえば、別に裸の要素に対しては、そこまで強く作品鑑賞の邪魔をするっていう感覚はないんですけど…。でもひとつ経験としてはあって。

 去年に知り合いの展示で、自分のヌードのセルフポートレートの写真を展示していた方がいたんですけど。L版くらいのサイズで印刷したものが確か積み重ねられていて。で、隣に空き缶とキャプションが置いてあって、キャプションを読むことには「任意の対価を支払えばその写真を持って帰ることができる」と。

 たしか“対価”は貨幣に限定されていたと思うんですけど。だからお金を払えば写真を一人一枚持って帰ることができますよっていう、作品を持って帰るっていう経験が重要な域を占めている写真作品で。でそれが、大学の先輩の、女性の作家自身のヌード写真だったんですよね。

 それは持って帰らずに写真だけを見ることもできるんですよ。じーっと写真だけを観て、お金を払わないまま帰ることもできるっていうような作品だった。でも僕はお金を払うことができなかったし、作品も見ることができなかったんですよ。なんでかっていうと、僕がまず鑑賞者だからという理由だけで「ヌード」をジロジロ見るっていう行為にすごい抵抗があったんですね。

 あと、少し前でも話しました(4章)けど、鑑賞すること自体がそもそもセクシャルって話とかをしてたじゃないですか。だから、その写真を「ジロジロ見ている姿」を他人に見られるのが嫌だったっていう気持ちもあって…。

 「お金を払って写真を持り帰り、家でみればいいじゃん」みたいなことも一瞬考えたんですけど…なんだかまるで女性の裸が描かれた絵画を自分で購入して、自室で鑑賞する男性資本家みたいなイメージを思い浮かべてしまったりもして…。お金を払うことによって僕自身までもが、資本主義社会の美術史の中で貨幣と交換されてきた「女性裸体」の悪しきサイクルに回収されてしまうような作品でもあるんじゃないかと思って。そのある種の演劇的な、仕組まれていたかもしれない作品構造に僕はあんまり乗りたくはなかったんですよ。

 批判対象として資本主義社会での交換される価値が挙げられているのであれば、僕がそこにお金を払うことで俳優の役割で参画する、お金を払って人の裸を買うみたいなことを再現したくなかったこともあって…結局買えず。で、写真も見ることはできないし、作品に参加することもできないという状態で帰ったっていう経験があって。すごくショックに覚えているんですよね…

 …と、説明が長くなってしまいました。

 だから正直、作品を見るっていうサッパリとした気持ちで、写真家のヌードのセルフポートレートを見るっていうのは「できる」っていう気持ちはあるんですけど、それが鮮明に写し出された異性の写真作品になってくると、僕はちょっと、どうしても感覚が変わっちゃうんですよね、っていうのはあります。でもこれはどうしようもないなと思って。僕がどう考えようとか関係なく、僕がそれを鑑賞したっていうこと自体を変な方向に読み取られてしまうかもしれない状況がすごい嫌で。結局そこに接触しないようにするっていう手をその時はとったんですけど…。そういうような感覚は持っているので、確かに抵抗感があるのはわかります。

コムラ

 やっぱり裸っていうだけで強いメッセージがあって。文脈もあるじゃないですか。今までの絵画や彫刻における身体の扱われ方であったりとか。今もポルノ的な見方とかがある中で、人を試すようなヌード作品はわたしは作りたくなくて。さっき話にでた作品は、さあどうする?どう思う?みたいな、試している作品だと思うんですけど…

 そういう高圧的なヌードはもういいかなって。もう誰がどう実験したって、他者の裸を見ることはしんどいものっていうのは一つの答えだと思ってて。恋人とか、自分の産んだ、育てた子供の小さい姿じゃない限り。だからもっと違う切り込み方でヌードを解釈できれば、それをテーマにできれば、自分の裸ももっと気軽にオープンに展示とか、写真集として販売できるだろうけど、でも実際自分の写真を写真集で何十万もかけて発売する勇気も、展示する勇気もない。

吉野

 ただ、中村立行さんが挙げられていたように、エロを除いた造形性の追求に強く惹かれている部分はあるわけじゃないですか。それをなんとなく、“ぼかし”を足すことで達成できるんじゃないかって若干思ったんですよね。こう鮮明にその形を写し出しているわけでもないんだけれども、ギリギリ許せる限りまでをぼかして、そのギリギリできる範囲での身体造形美みたいなものを作品として発表することはもしかしたらできるのかなって思って…

 あともう一つは、さっき「演出としての服を許す」っていうようなことをおっしゃってたんですけど、“ぼかし”じゃなくて、それこそレースカーテンみたいな扱いとして、一層挟むことで許せる、許すことができるっていうラインがあるのであれば、服も一つの“ぼかし”の手段として、コムラさんの作品に現れはじめる可能性はあるのかなって思いました。どうでしょう?

コムラ

 そうかも。

 さっき立行さんとかメイプルソープみたいな鮮明に写し出された美しい造形美には、自分はできないんだと。自分のこの思考ではこの作風はできないんだと思っていたけど、むしろ融合させて、ぼかした造形美を融合させて、また新しい作風を模索していく、さっき言ってくれてた一点目と、もう一点、今まで嫌っていた服を徐々に受け入れている段階だからこそ、さらにもっと肯定的に好意的に服を受け入れることで…「挟む」ってことをもっと意識することで作品を作ってみてもいいのかも。吉野くんが言ってくれたことをまとめただけだけど、二つのやり方として。

吉野

 そうですね。こうしてお話伺っていると、なんだか今後の発展形がますます楽しみになりますね、引き続き追っていきたいところです。

 …と、いささか唐突な終わり方かもしれないですが…インタビューはこんなところでしょうか?

コムラ

 そう…ですね。いいと思います!

 吉野くん、この度はありがとうございました。

吉野

 こちらこそとても楽しかったです!

 ありがとうございました。

(おわり)